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文久2年9月1日(1862.10.23)
【京】「ニ嬪」堀河紀子の辞職・隠居
【江】芳野金陵、テロを警戒し、松平春嶽の登城中止を忠告

公武合体派排斥・暗殺
【京】文久2年9月1日、堀河紀子が辞職・隠居を命じられました。

四奸ニ嬪
和宮降嫁に尽力した、久我建通(内大臣)・岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)、今城重子(少将掌侍)・堀河紀子(右衛門掌侍)は、四奸ニ嬪と呼ばれ、尊攘激派の攻撃対象となっていました。紀子は岩倉具視の実妹で皇女二人の生母でした。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.10.24)
関連:■テーマ別文久2「公武合体派排斥・「天誅」

■幕政改革(反改革)
【江】文久2年9月1日、儒者・芳野金陵が、幕政改革による失業者による春嶽襲撃の風説を告げ、登城中止を忠告しました。

この日の朝、田中藩儒者・芳野金陵(立蔵)が越前藩邸を訪問し、慌しく中根靱負に面会を求めて、登城中止を求めました。幕府の出した改革令の一つに登城の従者の減少がありましたが、これによる「渡り徒士・日雇」(臨時雇いの足軽・中間・小者)の失業は数万人に上りました。芳野は、彼ら失業者が改革の主唱者である松平春嶽を恨み、徒党を組んで登城途中に襲撃する計画があるという巷説を聞き込み、万一そのようなことになれば、「政府の汚辱」になることはもちろん、改革令施行の妨げともなるので、十分注意を払うよう忠告しにきたのです

中根が芳野の忠告を春嶽に伝えたところ、春嶽は<天下の重任を負って廟堂に立つ身が、不確かな巷説のために軽々しく動けようか。すでに、先日も、下馬辺で発砲があったという噂を聞いたが、そのまま聞き流し、かつ家臣らがそのような説を聞けば徒に心配するだろうと考え、その後邸内で口外しなかったほどだ>と、聞き入れませんでした。しかし、藩執政らが登城反対を何度も意見したため、時間がかかり、登城はとりやめになりまいた。

藩執政らは、さらに中根を大目付の岡部駿河守・浅野伊賀守に派遣し、芳野の話が単なる風説に過ぎないとしても、改革による失業者の対策を施行するよう申し入れました。幕閣は速やかに協議に及び、改革のため失業したものの意思を確認し、帰国・江戸在留は本人次第とし、帰国する場合は、本籍の領主地頭に仕事につくまでの間相当の援助をさせ、江戸に留まる場合は、江戸町奉行に援助させることを決定したそうです。

<ヒロ>
芳野金陵は、安井息軒・塩谷宕陰と並んで、文久の三博士と呼ばれる有名な学者で、文久2年12月12日には学制改革の一環として、昌平黌教授に抜擢されました。田中藩の藩政改革に尽くし、昌平黌教授に抜擢されていました。ちなみに息子の桜陰は、やはり文久3年に昌平黌の助教授に任命されています。この桜陰は、のちに天狗党挙兵に参加しますが、なんと御陵衛士頭取となった伊東甲子太郎の一周忌に「為我亡友伊東甲子太郎君」という題の漢詩を詠んでいます。伊東とはかなり親交が深かったことがうかがわれると思います。残念ながら金陵と伊東を結ぶ資料には出会ったことがまだないのですが、どこかで接点はあったのではないでしょうか・・・。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.10.24、10.28)
関連■「開国開城」文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革 ■テーマ別文久2 「幕政改革問題

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